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受胎、妊娠

排卵は自然の法則である。そして妊娠は神の法則である。(457-11)

子供を生むことは肉体だけの事と考えてはいけない

両親の生命の領域は(フィールド)はこどもとしてやってくる霊魂のタイプを決めるのだから

ここでは精神的なものとして妊娠受胎を考えるものとしてエドガー・ケイシーの男と女の神秘を探る「家庭と結婚」中央アート社から考えてみることとします。

先ず親になる準備

自分の子供はどうだったか?

幸いにして私は、家庭に2人の子供がいる。

お姉ちゃんはゆっくりとした一戸建ての家でゆったりとだが結構神経をつかつているときに妊娠した、2番目の子は、母と同居した時に妊娠した(二人とも大変な不安な時期を送っている)このときも妻はひとりで十分、でも私はもうひとりほしかった。

妻が下の子を妊娠したのは40才という高齢だったからです。

この中でひとつ参考になるのは聖書のなかのアブラハムとイサクの話です。

アブラハムは妻サラが妊娠することを主が預言するその時二人とも年老いサラはとうに月の物は無かったと記載されています。


ここで重要なのは

「なぜあなたは子どもが欲しいのか?」。

確かなのは、私たちが子どもを強く欲しがるという事実である。

1ある人は子どもはある種の憧憬を満たしてくれると考える。

2夫婦が互いに愛し合っていることを形に現わしたのが子どもであると考える人々。

3人間には自分が愛したり世話をしたりする相手が必要であるから。子どもなしには私たちは完全であるとは感じられないから。

4.自分の名前が継続していくことを望むのが人間だから。

5.子どもに自分が達成することのできなかった成功を期待する可能性があるから。


この問題に対する普通とは違った解答が、エドガー・ケイシーのリーディングの中には述べられている。このリーディングは確実な経済的地位を求める一方で、子どもを持つことを拒んできた一組のカップルに対してなされたリーディングであった。

 

質問?ここ何年来、物質的に生きることだけに没頭してきたことは、霊的な発展にとってマイナスになるものでしょうか?それとも今後にとって必要な体験だったのでしょうか?

 

解答?それは必要な体験とすることができるものである。もしそれが言い訳として利用され、自分と伴侶をかばう何かとして利用されるとすれば、それはマイナスのものである。しかし、意図を満たすための機会として利用されるならば、それはプラスのものである。なぜならば、創造者によって人間にまず第一に要求されているところのものは何か?"生めよ殖やせよ"。これが自然の法あるいは精神的な法、霊的な法として設定されたがは、そういう活動が肉体の満足のためになされるか、精神的な自己の満足のためになされるか、あるいは創造の力との完全な関係を完成するためになされるかによって決まる。(457-10)

”生めよ殖やせよ”。この言葉は本当に言葉どおりの意味で使われているのだろうか?私たちが殖えねばならないとはどういうことだろうか?これは私たちと関係する他の人間の肉体のことだけを言っているのではないだろう。同時に愛と憎しみ、善と悪、無私性と自己中心性、信念と恐怖、光と闇、生と死などのことも言っているに違いない。また私達が子供を望むとすれば、それは自分自身をより良く愛しているのだと言うことになるのに違いない。

子供こそは地上において豊かに殖やされるベきものだからである。

長い時代にわたって西洋の社会がもっと知りたいと望んできたのは、物理的な地球の内容に関してであった。

そして西洋社会は心や心の働きの秘密といったことよりも、そういうことをよく知りたがってきた。しかし私たちは心を持つことによって豊かになれる存在であり、自分たちの考えに少しずつ新しい知見を加えてもっと知ろうという願望を満足させてきた存在なのである。

私たちはいろいろな物質界的な知識を蓄えてきた結果として、私たち自身の生き方のバランスを崩してしまっている。

そして同時に霊的存在としての自分自身に関しては、物質界的な知識に比べ、あまりに知らなすぎるという状況にあるといえる。現在の私たちにとって必要なことは、この世界において愛、無私性、光を増殖させることである。それによって私たちは本当の意味で"創造の力との完全な関係"を達成できるのである。ほとんどの場合、私たちは自分が"なぜ"自分の人生の中において子どもを欲しがっているのかという本当の理由に気づいていない。しかし、いまのことが実は本当の理由なのだといっていいだろう。

 

 

どんな性質の子どもを持ちたいかといったことを考え、そういうプランを心に抱いていた-結婚という結びつきに至る過程でも、そういう遺伝的要素が働いていることは間違いない。しかし、エドガー・ケイシーのリーディングに接し、エドガー・ケイシーの生涯とそのリーディングを研究する学習グループに参加するようになったことを通じて、私たちはもう少し違うことも行うようになり始めた。そしてそれは今、私たちがこの世に生まれてくる全ての子どもたちの遺伝的な資産の一部にするべきものと信じていることなのである。

 

私たちには絶対に必要だといっていいことがいくつかある。これは誰でも感じていることである。

そのうち第一のステップとは、いうまでもなく自分にとって適切なパートナーを選択するということである。次にその2人にとって重要なスタートの基礎になるのは、2人が結婚生活に入るに当たり、何人の子供を持ちたいかと考えているか、という点に関して意見の一致を持つということである。

この種の準備に関して、エドガー・ケイシーは自分が重要と考えたポイントを指摘している。そして彼はその結論を、無意識的な知識の宝庫からばかりでなく『聖書』の中の物語とか有名な殉教者の実例などから得ていた。エドガー・ケイシーが全てのリーディングを通じていっていることは、親になる者には必ず親になるための準備が必要であり、それがきわめて重要なことだということであった。

あるタイプの実体をその家族の中にやってくるようにするためには、心と肉体をそのように清めることが必要なのである。父親になるべき者にも母親になるべき者にも正しい態度が必要であって、この態度がともにやってくる実体のためのガイドになるものだとエドガー・ケイシーは説いていた。子どもをみごもりたいと親が考える時には、両親はそれだけでもう生命の根源そのものと関わり始めているのだという。

 

だから、自分の肉体と自分の心を通路(チャネル)にしたいと思う人はそういう活動-肉体と心との間でのーが行われている間は浄化のための行動を実行しなければならない。それは自分たちがその表現のためにいままでもそうしてきたものであり、現在も自分自身で築いているという意識をもたらすものになる。(541-1)

 

人々は、妊娠とか子どもを産むことを単に肉体的な条件のことだとあまり考え過ぎる傾向がある。しかし、これは本当はそもそもの原初-生命の根源のものーからのもので、これまでもあり、いまもあるものなのだと理解すべきだ。ハンナがどのように自分を準備したか、また、マリアがどのように自分を準備したかを忘れるな。記録に残っているそういう人々はたくさんいる。また、記録が残っていない人々もたくさんいる。しかし、そこには長い準備があったのだ。(2977-2)


人は正確にいうと、どのように妊娠のための準備をするのか?

私たちは、肉体的に体をクリーンにする。肉体的にクリーンに保つとは、風呂に入ることだけを意味するわけではもちろんない。肉体が本当に必要とするものを供給し健康をつくる食事をとること、誤った食べものの趣向にだけ振り回されないこと、適切な労働、休憩、睡眠、レクリエーションを通じて肉体的な活動やエネルギーのバランスを適切に保つことなども肉体をクリーンに保つことである。また心は、私たちが耳にし、眼にし、読むものによってつねにその栄養源を供給されている。そしてそこのに私達は自分で考えることによって栄養源を追加し、自分で選択することによって心を作り上げる。さらに自分の向上心を刺激するような読書や祈りや瞑想の習慣、あるいは愛の精神に基づいて他人の為に行動する事などによっても、私達は栄養源を追加していく。エドガー・ケイシーはエドガー・ケイシー研究グループのひとりがした質問に次のように答えている。

質問4「神を求めて」の他に、私が霊的な発展のために読むべき本にはどんな本がありますか?

解答4.全ての本の中の本を読みなさい。特に「申命記」第三〇章と「サムエル記」を読みなさい。そして特に、ハンナの態度や条件、状況などのことについてよく考えなさい。これらは、彼女の夫やその他の伴侶に関していただけでなく、彼女の生の中の霊的な目覚めにも関係していたものだったそしてこれらは、今日の世界や地球上にも同じように存在する条件や状況なのである。もしこの実体が自分をそのような位置に置くことができ、またそのような位置に置く気があるならば、それから「ヨハネ伝福音書」の第一四章から第一七草までを研究するならば、"神と自分を一つにできるか?"というテーマを肉体的な準備についての研究と一つにするならば、それは理解をもたらすものになるだろう。単なる義務としてではなく、主の侍女になる機会として。(457-10)

 

どのように子どもが母親の胎内に宿り、つの霊魂がこの世に生をうけるかについて語ったエドガー・ケイシーの話は、全く人を驚かずに十分のものであった。彼の語ったことは二〇世紀までに知られている科学の法則と合致するものではない。しかし、人間がつくりあげた考えと霊的な法則が完全に一致したなんてことはこれまでにあっただろうか?

また本当に偉大な科学者は誰でも、ものごとの全プログラムの中には一つの創造のカが存在しなければならないという宇宙の真実について知っているが、まだ人間はそのほんの少しのことしかわかっていないのだといっている。そして、偉大な科学者たちのそういう指摘にかかわらず、人間はまだ神の存在を証明できていない。

霊的な知識は、つねに物質的な知識より先行してきたものであった。それは神の予言者たちが王や僧侶たちにつねに道を指し示してきたのと同じようにである。神の知識は人間のそれより偉大だというのは正しい考えである。しかし、人間は、時には喜劇的に、また時には本当に悲劇的に自分自身を神と考えたり、神とは自分が自分のイメ-ジに合わせてつくり出したものだと考えたりしてきた。エドガー・ケイシーは"妊娠は神の法則であり、排卵は自然の法則だ。"という認識の仕方を私たちに示した。

これは詳しく調べてみる必要のある大切な点だといえる。動物の世界ではそれぞれの種族の雌は規則的に排卵している。これに対し雄はつねに精子をつくり続けているのはいうまでもない。しかし、実際の妊娠というプロセスが創造の行為となるのは排卵がなされ、その卵子が精子に取り囲まれた状態においてである。一個の新しい個体は、別々の二つの.細胞から形成される。そしてこの二つの細胞自体はそれぞれ退化や死という運命を背負っている。これに対し創造という行為は-そもそも原初において、地球上での種の再生産を保証するために一つの法則が設定された。エドガー・ケイシーが人間の運命について本当に語っているのは、多分このことなのだろうと私は思う。

エドガー・ケイシーはこんなふうにいっている。

この世での二人の人間には引きつけ合いがあり、それは肉体の中に深く宿された生殖の源泉へと誘うものであり、また同時に霊魂の世界における創造の源泉へと誘うものである。二人の人間が排卵の時期に性行為をする時、二人の周囲にはいまの引きつけ合いがつくり出される。そしてそれはちょうどラジオの放送局のようなものになる。この世での生を求めている一つの霊魂は、そこに引きつけられてやってくる。

そしてもし、"その霊魂とその肉体の間に似かようものがある場合には、それが霊魂のこの世における誕生の時期となる"。妊娠とは特別なできごとである。霊の世界での創造的な要素がそこに持ち込まれてくるという意味で、妊娠とは特別なできごとだといえる。妊娠に関してトラブルを持っていた一人の女性が、エドガー・ケイシーにした質問がある。これは今、私たちが問題にしていることにまさにぴったりした質問であった。

 

妊娠とは神が与えてくれる賜物である。だからつねにそのようなものと考えなければならない。

質問1.いままで私は、なぜ妊娠できなかったのでしょうか?

解答1.自分自身に訊ねよ!

われわれがいまいったばかりのような光の中で考えてみれば答えは自己の中にしかない。

あなたが求めているものを与えることを、神は適切と考えたのであろうか?

神の考え給うところのものの通路(チャネル)に価いするような者として、あなたは自分自身を準備してきたか?自分だけがこのことに答えられるだろう。

 

質問2.生理の前には十分な時間が許されていないのでしょうか?

解答2.これは単なる肉体的行為といったものの問題ではない。このことをそういう角度だけから考えてはいけない。(457-11)

 

妊娠のための準備をすることは、母親の側だけの責任でないことはいうまでもない。

同じ共通の目標に向かって意図と願望を一つにすることによって、夫婦はやってくる霊魂を引きつける生命の脈動の領域とも呼ぶべきものをよく準備することができるだろう。

"類は友を呼ぶ"はつねに不変の法則である。

だから私たちがつくり出すオーラ、エネルギーのフィールド世界、精神的.霊的.肉体的な雰囲気は、私たちの家庭の中に子どもとしてやってくる霊魂のタイプを決めるものとなる。父親も母親も同じように重要な責任を持っているのであり、二人は妊娠のための準備の期間だけでなく、妊娠中の全期間を通じて互いに協調した態度を保ち続け無ければならない。そしてこれが、子供の精神的な態度を作り出すのに一役買うのである。

 

質問6.その態度とは妊娠の時において大切なものなのですか。それとも両親の日常のい

つもの態度として重要なものなのでしょうか?

 

解答6.態度は行動そのものと同じように必須のものである。

(457-11)

 

夫婦が準備をするということは、自分たちの家族の一員としてやってくる一個の人間のために舞台を設定しているのだということである。このことを詳しく語ったリーディングにつぎのようなものがある。

 

この法則はつねに存在しているものである。類は友を呼び、類は友を生むという法則は。そういう人々の願望は肉体における生殖の源泉へ、創造の源泉、あるいは霊魂の世界における霊魂の源泉へと呼びかけるものである。そしてその霊魂の中にはしばしば本当の意図があり…自己を表現する時期を探している。さらにその霊魂が問題の肉体の周囲にその時期を発見すると、それがこの世に霊魂が姿を現わす時期となる。その肉体は妊娠の時に始まるが、霊的、精神的なもののほうは肉体が最初の呼吸をする時にやってくる-そしてその時に地上へ滞留し、その生をおくるための肉体的器官をも・った生きた霊魂となる。

(54-1)

 

 


五種類の妊娠

私たちは日常生活の中で、自分の周囲にこの五種類の妊娠のうち少なくとも四つのものに関してはその結果を眼にしているはずである。しかし、そうしていながら人々は、そういう妊娠がどのようにしてこの世界にもたらされてきているかということについてはまるで気づいていない。これらの妊娠にはそれを教えるネオンサインもついているのにである。

だから、イエスは言ったのである。「然らば、その果てによりて彼等を知るべし」と(マタイ伝福音書」第7章の20)

5種類の妊娠とは次の様な物である。

(1)肉欲的な妊娠

(2)精神的な妊娠

(3)意図の結びつきの妊娠

(4)理想の妊娠

(5)完壁な妊娠。エドガー・ケイシーがいっていることの中に、これに関連して役に立つと思われることがある。

 

……そういう条件について警告としていえば、この実体の真の精神的、霊的なつながりからみると、現在の妊娠の中において自分自身に理解をもたらすことから引き離すようなものはない。なぜならば、すでに指摘したように、ミカエルはその道の主であり、そういう霊的な関連を通じてのガイドであるから。なぜならば霊的なものは生命、光であり、精神的なものはつくる者であり、物質的、肉体的なものはそういうものの働きが物質的、肉欲的、肉体的な世界に適用された結果であるから。(585-1)

 

このような考えを頭におきながら、妊娠に至る道筋のことを考えてみよう。

そしてそれは、厳密な規則とかそれ自身の明確なリアリティがどうかという問題としてではなく全体のプロセスをよりよく理解するための方法といった観点から考えてみよう。

 

 

二人の男女が精神的、霊的な要素のことは全く考えずに、ただ性行為による満足ということだけに関心を持っているとしよう。こういう状態が肉欲的な妊娠と呼ぶ場合である。

これは肉欲的な願望をベースにした純粋に肉体的な行為である。これは何の準備もなくて、おそらく妊娠とか親になるとかいうことすらも全く考えることなく起こってくる考え方である一多分そこには妊娠しないだろうという希望を中心としたいろいろな肉欲的な考えも同時に起こっているに違いない)。私たちの医院にはたくさんの若い娘たちがやってくる。彼女たちは性的関係を派手に展開している。そして未婚で妊娠しているけれど、相手の男を愛しているわけでもなく、精神的に混乱しそこから何とか抜け出したいと思っている娘がやってくることもしばしばある。このような妊娠はその全てがそうだとはいわないまでも、典型的な肉欲的妊娠である。このようなタイプの妊娠は、結婚している者同士の間にだってよく見られる。夫婦が互いに肉体的魅力以外のものはほとんど感じていないという場合がそうだ。ここには願望と意図をもって夫婦の間にやってくる一つの霊魂を、自分たちの家庭の中に呼び込もうとする配慮は全く払われていない。意識的にも無意識的にも、そういう配慮は払われていない。こういう家庭に引きつけられ生まれることになった子どもたちは、時として恐れを抱いていたり混乱していたりする。子どもたちの状態は、両親の間にある態度がどんなものかによって左右されるといっていい。もちろん、こういうタイプの誕生を必要としている霊魂もある。しかし肉欲的な妊娠とは解決の難しい問題をたくさん起こす妊娠なのだ。

 

これに対し精神的妊娠は当然肉欲的妊娠とはちがった妊娠である。

この場合には多分、夫も妻も生まれてくる子供がどんな子であってほしいかという精神的なイメージを強く持っているはずであり、そのイメージを明確でハッキリと形になった考えの姿として(ソート・フォーム)として保持しているはずである。エドガー・ケイシーによればイシマエルの場合もそうだったという。

 

アブラハムとサラが、その者を通じて地上の国々が祝福されることになるような一人の世嗣ぎの約束をされた時、そういう人間の肉体的、精神的、霊的性質はどうあるべきかということに関する準備に長い年月がかけられた。彼らがお互いにその物質世界的な考え一この言葉にどうかよく注意して欲しい。もしあなたが理解しようと欲するならば一の中で一つのプラン、やり方をどのように試みようとしたかはくり返し示されている。そのプラン、やり方で霊的な根源からの物質世界的な祝福を形に現わすためだった。

そこでわれわれはどのように物質的、精神的な自己が-霊的な約束を誤解し、意味を取り違えながら-全く違った一個の実体が姿を現わすための通路を提供し、かつその通りに実現してしまうかということを知る。また、同じ通路を通じて混乱、不幸、問題がつぎからつぎへと物質世界的な形をとってどのように現われてくるかということも知る。(281-48)

 

ここで私たちが知るのは、アブラハムとサラの忍耐のなさの結果がどうなったかということである。彼らは自分たちに与えられた神の約束がどんなものになるのかを待たずに、逆に神の手をせき立てた。そしてアブラハムはサラの女中ハガルによって息子をもうけた。彼女がアブラハムと違う考えを持っていたのはいうまでもない。両者の間には多分、本当の愛はなかったはずであり、だからこの妊娠は精神的な妊娠となった。『聖書』やエドガー・ケイシーの言葉の中にこのような妊娠のことを説明するもう一つの物語が出てくる。

 

 

イサクの息子たちの中にもそういうことを説明する実例がある。イサクとリベカに与えられた約束が実現されるはずの時期だった時のことである。われわれが知っているところによれば、この約束がそこを通じて実現されるべき通路やその性質に関して彼らの心は違っていた。また、われわれが理解しているところでは、同じものが物質界的な結果となって現われるためには、そこに霊的、精神的な協調作業がなければならない時だったのにである。そして、これもわれわれが知っているところだが、妊娠の時においてここには違った状況が生まれ、両者の態度がそこに表現を見出した。そこでここに長い準備の結果として双生児が生まれることになったが、それはまさに二つの心、二つの意見、二つの考え、二つの理想であった。こうゆうことから我々は知る。聖なる物においてさえもその母親に、どちらが支配者であるべきものであり、この世界、全体としての人類に偉大なる祝福を示すべき正当なる世嗣ぎとなる者はどの者であるかを示すことがここにおいて必要だったかということを。

(281-48)

 

精神的な妊娠に関係した話だった。その母親は美しい歌手だったが、父親のほうは自分の声に何の関心もなかった。二人ともある奉仕活動に関係していたが、それはおそらく二人が生まれる前からスタートしていた活動だった。それにもかかわらず、最初の二人の子どもが生まれる以前にこの夫婦は、自分たちの間にどんなタイプの霊魂がやってくるかに自分たち自身もある種の影響力を持っているのだ、ということをほとんど考えていなかった。妊娠とはただ自然のままに起きることだという以外には、全く何も考えていなかったわけである。ただ母親は、自分以上に魅力があって知的で偉大な歌手になるような子どもを持ちたいという気持ちを強く持っていた。父親もそのていどには同じように望んでいた。しかし彼は、声楽の才能なんていうことについては全く考えていなかったと後で自分でも認めている。こんな状況の中で二人の子どもが生まれ、母親(また父親も一緒に)が望んだような子どもになっていった-これは意図の結びついた妊娠というべきものだったといえるかもしれない。

しかし、二人はいい歌声を持って生まれてくるようにという精神的な願望はつくりあげていなかった。そして二人の子どももピアノはもちろん、両親の助けがあってさえ音階の高低をとるのがうまくいかないのだった。

しかし三人目の子どもが生まれる前にはこの両親は意図や理想ということを意識するようになり、妊娠への準備ということについて考えるようになっていた。こうして生まれた三番目の子どもは、両親のどちらの心にもある奉仕活動への深い関心を両親と同じように持つ子になった。そして同時に両親の願望が一つに調和し、両親の精神的イメージが明確なものになっていた結果としてその子の中には母親の音楽への愛が結実し、母親並みの美しい声の持ち主として生まれたのだった。

この実例の中に、私たちは精神的な妊娠のことだけではなくて五つのタイプの妊娠のうちの第三のタイプーつまり意図が一つに結びついた妊娠の姿を認めることができる。この夫婦は自分たちの目標を明確な形で心の中に描いていた。だからその結果として、その意図の結びつきどおりの子どもを実際に手に入れることができた。しかし、もしこの夫婦が三番目の子どもに、ただ美しい声の持ち主であるようにという意図だけでなく歌の才能も望んでいたとしたらどうだっただろうか。多分この子は偉大な歌手になったのではないかと思われる。

長い間にわたって代々医者だったというような家庭がある。こういうケースは代々の両親たちが同じ意図の結びつきをもっていたのだろう。そしてその意図の結びつきが一つの世代から次の世代へと連綿と受け継がれてきたということなのに違いない。どの世代の両親も病気を治すことに関心をもち、健康の面で恵まれない人々と接触するような子供を持ちたいという立派な願望を分かち合って来たに違いない。

有名なメイヨー・クリニックのメイヨー一家は、多分このタイプの妊娠の格好の実例だと思われる。

マックギャレー自身の両親も、同じ方向へのスタートを切った実例かもしれない。というのは両親はともに医者だったし、マックギャレーも医者であり、またマックギャレー家の長男カールも医者になっているからである。カールがまだ小さい子どもだった頃に、彼の中にそういう意図の結びつきがあるのに気づき、彼のことを"小さなお医者さん。"という呼び方で呼んだりもしたそうです。彼は同世代の子どもが身体の部分をへそ、鼻、ひじなどと呼ぶことを知らない頃すでに、身体を難しい言葉で指し示すことができたのだった。

 

エドガー・ケイシーのリーディングによれば、理想の妊娠とはもし自分たちにそういう機会があるなら誰でも手に入れたいと思う妊娠である。こういうケースでは両親がともに一つの理想を持ち、それに向かって努力している。こういう両親は、自分たちが持ちたいと思う子どもについての精神的イメージを持っているだけではない。彼らは自分たち自身を神の意のままに解放している人々なのである。彼らは聖なる者が物質の世界に自分を現わしてくる通路に喜んでなろうとする。母親になりたいと望んでいた一人の女性に対してエドガー・ケイシーが与えたつぎのリーディングは、には大いに励みになるだろう。

 

実体がよく調べることができ、分析できるような例が聖典の中にあることを忘れるな。これはただ女予言者ハンナの態度という歴史的な事実だけではなく、その意図について疑いを持っているような人々の態度にふれたものである。そこでかの実体がとっていたと同じような態度で、この実体を自分および子どもに神の栄光と、通路となるような活動をもたらすよう臨むべきである。(457-10)

 

私たちはどのようにしたら理想の妊娠を自分のものにすることができるのだろうか?エドガー・ケイシーの考えや理想について私たち自身の理解の仕方がこの問題を解くために役立ちそうである。しかし、そうはいっても、その答えは私たち自身の内的なヴィジョンによってのみ明らかにできるものである。言葉を変えていえば、他の人が本当に理想の妊娠を自分のものにしているかどうかを知ることは誰にでもできることではない。なぜならば霊的な理想、その方向、祈り、瞑想といったものは全て神の心とつながっているものだからである。そして他人の心の中にあるものを知っているのはただ神だけだからである。

理想の妊娠を本当に実現するためには、それを深く心に持ち、そのために深く自分を奉げることが必要である。そしてそれが実際におきた時には、父と母はともにその子の成長を

注意深く見守り、自分たちの見るものを"心の中で宝物としていつくしむ"ことが必要である。

イサクと彼がこの世にやってきたことに関してのもう一つの物語がある。そして、このことはエドガー・ケイシーのリーディング(281-48)の中で詳しく語られている。

 

しかし、最後の約束、つまり年をとった二人なのに世嗣ぎが与えられようという約束が与えられた時、サラがそのようにして懐妊し一つの肉体の肉体的、精神的、霊的な成長が見られ、その成長が彼の周囲の世界との関連の中でほとんど霊気のようによくバランスがとれていて、物質世界的な顕現が成熟に達していた時のことがわれわれには見える。

だから、ここには心と物質が霊的な活動のための通路をつくるのに協調して働き、その霊的な活動は聖典に描かれているどんな人物の中においてもいき過ぎになっていなかったことがわれわれには見える。それではその個人の実体に関連していた内分泌腺組織の性質とか働きとかはどんなものだったのか?われわれに見えるところによれば、その内部には完全な協調があり、しかもそれは懐妊の全期間を通じてそうであった。そしてまた聖な

る影響力によって機能すべく設定された法則にそった時間的な成熟があった。さらにこの聖なる影響力は、いまの期間を通じて両方の親のいずれもが行使したものごとを導いていく力となっていた。

また、懐妊の全期間を通じてのこの実体とその母親に関する活動が、まだ生まれない実体に影響を与えるようなものであったことや、その活動が他のどんな族長の場合にも見られなかった程度の忍耐を持ったものだったことがわれわれにはわかる。

いっぽう、この肉体の中に現わされた肉体的な条件は、成人への成長の過程では物質界的な法則の影響を受けた。しかし、それにもかかわらず、精神的なものを通じて霊的なものからの逸脱や変化はどんなものも見られなかった。そこでわれわれは、ここに個人の理想的な妊娠と呼ぶべきものとはどんなものなのかということを教える実例を持っていることになる。そしてこれは、妊娠の期間を通じての理想的ないつくしみとか育みというものを教える実例にもなっている。(281-48)

 

妊娠の五番目のタイプが完壁な妊娠である。イエスはこういう妊娠によって生まれた。ここでは卵子は聖なる者のスパークによって新しい生命が与えられる。こういう考えはけっして新しい考えでないことはいうまでもない。

 

カトリック派の物語や伝説の中でもまた、エドガー・ケイシーのリーディングの中でも、イエスが処女の聖母から生まれただけでは無く聖母マリアにしてもこのタイプの妊娠だったのだということが述べられている。

このような五番目のタイプの妊娠は、私たちが今問題にしている親になる準備と、つテーマとは関係がないタイプの妊娠である。しかし、これは妊娠のすべてのタイプを結ぶ金の糸のような一つの考えを示してくれる-それはこの物質的な世界に一人の子どもを存在させるということは、物質の世界と聖なる世界の両者が一つに結びつく機会だという考えに他ならない。妊娠という現象が起こったとしても、その子どもが実際に誕生するまで解かれることのない疑問が一つある。

「その子は男の子だろうか、女の子だろうか?」ということだ。これは、すでに科学の力で判断できるようになっているけれど、やはり生まれるまで決定的には分からない疑問だ。そこで親になる者はどんな名前をつけようかと思っていろいろな名前を並べたリストをつくったりする。時には夫婦が夢や感じで子どもの性を知り、その名前も明らかになることもある。しかし、子どもが生まれてみたらそんな名前はとても合わないということも同じように多い。しかし、母親の子宮の中で胎児の生命が始まった時に性を決定づけるための的確な答えは出されている。その答えは新しく妊娠した胎児の生理学的および霊的成長の中のどこかに潜んでいる。科学が説くところによれば、性は胎児の生命をスタートさせる卵子と精子の結びつきによって決定される。心の姿勢、気持ちや情緒面のパターン、その他の要素がいわゆる男の子を生む精子、女の子を生む精子の運動能力に影響を与えているという説も昔から立てられている。

 

この点に関してエドガー・ケイシーはいろいろな可能性を示唆するリーディングを残している。しかし、それは今日の科学的な説とは正確には一致するものではない。彼は母親の側の精神的願望が支配的だった場合には男の子が、父親の側のそれが支配的だった時には女の子が生まれるといったのであった。

またエドガー・ケイシーは、性は妊娠の時にではなくてもっとずっと後になって決められることもしばしばあるとも指摘していた。

 

子どもの性は夫婦の態度、特に母親のそれによって決められるものである。また男の子か女の子かということは、しばしば反対の性を排斥することによって決められる。母親の態度は男の子を、父親の態度は女の子を生ませるものである。

質問10.子どもの性は妊娠の時に決まるものですか、それとも後になって成長してそうなるのでしょうか?

解答10.ケースによっては、生まれてから少なくとも六年から一〇年の間に決まるという場合もある。だからそれは妊娠の時に決まるのではない。成長あるいはその妊娠をつくり出すのに働いたある生命の脈動のサイクルによって決まるのだ。(457-11)

これで見るとエドガー・ケイシーが男女の性は精子に特別な染色体があるかないかによって決まるのでは無いとする意見の人々の側に立っているのは明らかである。エドガー・ケイシーはその妊娠をもたらした特別なサイクルのなかにセットされたエネルギーのパターンが性をきめるとする人々の側に立っている。

親であることは、全てのことの中に姿を現わす神への愛を中心軸としているものであると同時に、多くの要素を含んでいる。もしエドガー・ケイシーの指摘したとおりだとするならば、この世に子どもをもたらすという行為は、霊的な世界からの力としっかり手を結びながら多くの法則に発動のきっかけを与えることなのだということになる。親になる準備の中で、多分もっとも重要な意味を持っていることといえば、それは一人の男と一人の女の関係である。その二人がどう行動し、考え、感じ、祈り、瞑想するか、二人の人間同胞や神に対する態度がどんなものであるか-こういう全ての要素が二人がどんなタイプの妊娠をするかを決めるのに重要な役割を果たしているのだといえるだろう。熱心に母親になりたがっていた一人の女性に、エドガー・ケイシーが与えたのがつぎのリーディングである。本章で問題にしてきたことについての最後の結論は、おそらくこのリーディングの中で述べられていることと同じものになるに違いない。

 

だから相手を責めることで自分を正当化することはするな!

相手の生の中において建設的な役割をするようになり、そう生きることによって自分を正当化せよ…。なぜならばあなたは、自分自身にとって本当の愛とは何かを考えてみたことがあるか?それはそれ自身を誇るものでもない。悪く考えるものでもない。それは全てを忍耐するものである!

そして、これが意図である。これが人と人の引き合う基礎になるものである。肉体を一つの霊魂がそこを通じて姿を現わしてくる通路とするようにせよ!

そうすればあなたの意図、願望、あなたの生命への愛の中であなたは示すことができるだろう-そういう結びつきの中で-それがあなたをなおいっそう神に近づけるものであることを……。

そこで、日々の生き方の中であなた自身だけを満足させることを考えることを止めなさい。また他者の放縦になるようなことも。そうではなくて、あなたたちがお互いに生命、神、神の贈り物、神の約束、神の安らぎ、神の調和の栄光のだチャンネルめのより偉大でよりよき通路になることを考えるように-これらはあなたと相手の協調の中に姿を現わすことだろう。(1523-6)

 

関連するリ-ディング

 

われわれはいろいろな時代を通じて、真実の妊娠が民族のモラルとなったものを冒涜し、乱れたものになった時期があったことをしばしば見てきている。しかし、その同じ感情、同じ人間種族の肉体の結びつきから起こる喜びの感情-意図を持つことの中で聖化されることの中に生命を持ち、全ての生殖能力のある肉体の中に創造のエッセンスを保存させる能力となっているその感情-は真実、愛、希望、忍耐、安らぎ、調和を輝かせる火となることもできるものである。なぜならば、このようなものはつねに、人間の体験のうちで高い感情を刻むときに必ず与えられる想像に火を点ずる鍵になっているからである。そしてそれは一つあるいはその他の領域のいずれで起こる場合にも同じである。(364-6)

 

あなたたちはそれぞれ一つの理想を持てーただの考えではなくて理想をである。そしてそれから、その理想に照らして是認されるような自分になるように努めよ。ただ単に他人がそう思うからということではなく、またそれが法律だからとか、そう思われたりいわれたりするからということではなく、自分自身がその問題に正しく対応しようと思うという理由によってそうせよ。今からすぐに!

そしてこれが調和をもたらし、理解をもたらす。もしお互いの間にギブ・アンド.テイクをし合おうという気持ちがあるならば。

それは他人にあれこれと要求することではない。他人があなたをキリストの中にあらしめたいと思う気持ちに適合できるように、それを基準として自分自身にそうなるよう要求することだ!(263-18)

 

そこでそういう機会をつくるにあたっては、自己の心の態度、伴侶の心の態度を知るように。なぜならば、物質的な体験の世界にもたらされてくる性格や性質に関していえば、それはそういうことによるものだからである。(457-10)

 

お互いに、いろいろな体験の世界での活動や人との結びつきから生まれてくる問題として、すでに指摘したようなことについて学ぶようにせよ。これらは人間が直面すべき問題なのだから。お互いの協調によって選択された理想を達成するための可能な限り最上の通路に自分たちがなれるように努力しながら学び、直面せよ。こういう勉強とともに祈ることも必要であり、祈りは勉強と一緒になって役立つだろう。お互いが創造の力の心とその活動の中で要求されるものに対応していくということをお互い与えられた特権と考えられるように。

そうすることで、あなた方の肉体をより良い通路にするようにせよ。それによって神が-

彼の恩寵、彼の愛、彼の心遣いの中で-あなたの手にゆだねるような表現がそこに生まれる。また、あなたの肉体的な活動によってつくられたその肉体を通じて、一つの霊魂がもっともよく姿を現わすことになる。お互いが一緒に祈れ、大いに、声にも出して…。

祈りの時には、あるいはお互いの祈りは一緒に祈れ。声にも出し、大いに。そしてその意図を誓え!

願望を言葉に出していうことはそうでない場合と大きな違いを生むものなのだ。ましてや相手の面前でする祈りは…。

 

質問12ひまし油のパックを炎症に使い続けることは妊娠中も悪くないのでしょうか?

 

解答12あるいは妊娠するのを妨げませんか?むしろ使うほうがいい。妊娠中にはひまし油はいろいろな不安やその他の症状が起きるのを防ぐのに役立つ。しばしば自分自身で自分を分析するようにせよ。しかし、お互いにお互いを傷つけるようなことはあまりいわないように。忘れてはならない。あなたはあなたの伴侶の助力者であって、助力者とは伴侶を力づけるものであり、その気をくじくものではないことを。(1523-12)

 

母親の胎内で成長しつつある胎児も運命を持っているけれど、その人生のスタートをできる限りよくしようと働きかけることは可能である。

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