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病気と治癒の調和:エドガー・ケイシー療法

エドガー・ケイシーが口頭で伝えて速記者が記録したトランス・リーディングは、「すべての病気、となる事故、人間の生活に害を及ぽす環境が生じるのは、私たちが自然の法則に背き、誤った生活習慣に従っているからだ、したがって、・・・肉体、精神、霊のすべてにおける・・・真の治癒の基本原則は、自然に則した生活習慣と正しい考え方への回帰でなけれぱならないと言っている。」

「私達が考えることと私達が食べるものが・・・合わさって-私達の肉体と精神を作るのだ」[288-38]

Then, it's a combination of these. Yet, as has been indicated, ALWAYS will it be found that the ATTITUDE of the mental forces of a body finds its inception in those things that come into growth; for what we think and what we eat - combined together - MAKE what we ARE; physically and mentally.

エドガー・ケイシー・リーディングは、次のことを示して病気と治癒の調和を実証している。

すべての病気は、根本の結果・・・つまり、再生産力のない物質と毒素が体内に蓄積した状態・・・より前に起こる自然の法則に対する違反が原因であること、この病的な土壌は細菌とウイルスの温床であること、体の細胞及び組織を詰まらせている老廃物が、血流と神経の流れを妨げ、体の細胞及び内分泌腺の波動作用を妨げることによって、活力を低下させる原因となるということだ。

この前提から、真の治癒の第一原則は、自然な生き方と考え方を通じて体から老廃物及び異物をなくすことでなければならないこと、人体を毒し切断することは健康の助けにはならないことが論証される。

「肉体的に完全に正常な状態が、心と体を活動状態に保ち排泄を正常に近い状態に保つのに必要なものがあるだけだ。これは、肉体を持つあらゆる存在に必要であることがわかる。」[1653−3]

「排泄を続けるためのチャネルは多数ある。まず、呼吸器系。これは、呼吸によって、あるいは、血液が特定の状態を維持するのに必要な酸素を求めて肺に流れてくる際に起こる血流の浄化によって、脱酸素状態を直すことだけでなく・・・生体にある無数の細穴を通じて行なわれる外面全体における排泄(並びにリンパ液の循環による排泄)も意味する。」[5439-1]

「最後の手段として浣腸及び大腸の洗浄があるにはあるが、生体からの排泄が正常にきちんと行なわれるようにせよ・・・涜腸及び大腸の洗浄は誰が行なってもよいすぐれた手段で、それは体内に排泄物があると、上行結腸及び横行結腸で発酵が起こる際のかすのせいで生体が過度の働きを強いられ、多数の再感染が起こるからだ。」[5717-1]

生と死、健康、病と治癒の各プロセスが、万有引力の法則及び化学親和力の法則と同様に、自然の法則にも支配されること、精神と霊だけでなく、肉体に関しても基本戒律と道徳があること、そして、私が自分の肉体の本質の法則に忠実に従うなら、肉体的にも感情的にも精神的にも、退化ではなく再生を果たし、健康を回復する見込みがあることを悟った。

洗面所にいる時と朝食時に、自然の養生法を実践し始め、その時からずっと、自分の力のあたうる限りそれを実行しています。

結果はたいへん満足のいくものだった。体調の良い時も悪い時も治癒のクリーゼ(症状の急激な変化/訳注)もあったが、どの症状の時もずっと、私は自分が着実に進歩していることに気づいていた。このことが私に与えてくれた満足と幸福はとうてい言い表わせるものではない。それらは、健康状態の全般的な改善だけではなく、この新しく得た知識と自分自信の努力とで、自身の救済をなし遂けているのだという自覚を持たらしてくれたのだった。

私は、自分がついに完全な無矩と無力な伏態から立ち上がり、偽りの哲学と無知な聖職者たちの知識と誤った医学といういんちきに頼らない状態になったこと、その時からずっと、自分の運命を自分で支配していることを歓びとともに悟った。

ついに私は、人間の生命と行為に関する偉大な根本事実を理解したのだった。自然の法則を知ることと、意識的かつ自発的にその法則と協力していくことが、人間が単なる動物としての存在のレベルを超えてより高く向上するための鍵だということ、そして、これと同じ真理と法則という基礎のもとのみ、人類全体はより一層重大で複雑な問題を解決できることを悟ったのだった。

私は、病気と治癒の調和ということが、肉体だけでなく、精神及び霊の部分にも当てはまることがわかった。罪とか病気とか苦しみとか悪とか呼ぶものはすべて、治癒と起源及び性質を一にすること、これらの異常かつ不快な状態はすべて、自然の法則に背いたことだけが原因であること、したがって、唯一可能で恒久的な治癒は、自然に戻ってその根本の法則及び原理に従って生きることの結果でしかあり得ないことがわかった。

「さて、この体について、栄養等に関しての肉体的−物質的な本質の真理、法則、知識をいかに応用すれぱよいか。私たちはすでに、この体にはある傾向及び弱点があることを示した。それらは病気というよりもむしろ、楽でない状態で、この体が自身の精神的、霊的、肉体的な経験において耐えるよう、ある種のストレスや緊張が持たらされる時に生じるものだ。」[2533−6]

「病気は最初は、正常さは存在するがバランスを欠いた、楽でない状態から生じる。病気、つまり楽でない状態は、理想的な状態あるいは第一原因あるいは第一原理に矛盾した状態である。したがって、病気とはつまるところ、罪と呼んでよいだろう。」[2533−3]

「・・・肉体は、それが物質的な自然から吸収するものでつくられる。精神は、それが肉体的−精神的なものと霊的−精神的なものの両方から吸収するものでつくられる。魂とは、その実体の現在の状態、これまでの状態、これからなるかも知れない状態のすべてを言う。」[2475-1]

「私たちは肉体的には、私たちが体をつくるために消化してきたものでつくられる。」

「私たちは精神的には、私たちがこれまで考えてきたことの結果だが、肉体と比べても微塵も進歩していないのではないかな?」

「私たちは霊的には、私たちの精神的存在が吸収してきたことの結果だ。」[2970-1]

・・・現代医学は、病気及び治癒に関するぱい菌説のみを基に構築されている。微生物が存在することと、特定の微生物の有害そうな外観を呈する活動が特定の病気と結びついていることを顕微鏡が暴いてからは、バクテリアが大半の病気の根本原因だとされてきた。だから、今私たちが掲げているスローガンは、「(有害な消毒薬、抗血清、抗毒素で)バクテリアを殺せぱ病気は治る」なのだ。

エドガー・ケイシーの哲学ではこの問題についての見解が大いに違っている。病原菌は最も健康な肉体の中にもいるので、それが病気の原因だということはあり得ない。したがって、本当の原因は何か他のものでなけれぱならない。また、病気を引き起こす微生物に、育ち増殖する機会を与えるのは、もっぱら体内の老廃物及び病気を起こす物質だというわけでもない。

エドガー・ケイシー・リーディングは、微生物を病気の二次的な現われだとみなし、細菌と寄生虫が棲み、生長し、危険な程度にまで増殖するのは、弱まり、病み、バランスを欠いた生物の体内だけだと主張している。

「・・・すべての病気は罪が原因で起こる。これは、気に入ろうが気に入るまいが、すべての人が受け入れなけれぱならないことだ。病気は、体のものであれ、心あるいは魂のものであれ、罪に由来し、そして地に現われる・・・。」

「また、病気に対する体または心の反抗がある時には、体の原子が発疹や消化不良をひき起こすということに、少しでも疑念があるだろうか?なぜなら、これらはすべて、真理と光明の反抗、体内の誤りと是正でしかないからだ。体とは実際、生きた神の聖堂だからだ。あなたはその聖堂に何を引っ張り込んでしまったのか?」[3174-1]

・・・病気がバクテリアによって起こるという説が心にしみ込ませる恐怖は、しぱしぱ、微生物そのものよりも破壊的だ。奇妙な妄想や偏執狂が病原菌に対する誇張された恐れだった精神病患者がたくさんいる。

「自己についてであれ、他人が白分のことをどう思うかについてであれ、恐れは人類の大半の病苦の根元だ。恐れを克服することは、精神的・霊的な存在を満たすことだ。それは、多くの人の蹟罪のために自身を差し出した神を通じて世界に現われる愛だ。このような愛と信仰、そして理解は、恐れを追放する。恐れを抱くな。なぜなら、まいた種は刈り取らねばならないからだ。何の種をまくかにもっと気をつけよ!」[5459-3]

バクテリアは、実際、いつでもどこにでもいる。私たちはそれらを、食べ物や飲み物にて吸収し、呼吸する空気によって吸い込む。私たちの体は、文字どおりそれらとともに生きているのだ。消化のプロセスの最後の段階は、腸管内のバクテリアの活動に大いに依存している。

したがって、第一にやるべきことは、これらの微生物を殺そうとするのではなく、増殖を可能にする病気を起こす物質や病毒を体が排除するのを助けることだ。

自然な健康づくりに励むことは、私たちがその存在から逃れることが不可能な病原菌を殺すのにエネルギーを傾けるかわりに、生体を活気づけ、正常な基礎の上に血液とリンパを増強させ、バクテリアの破壊的な活動に対する自然の免疫力を確立できるような方法で、病気を引き起こす厄介者を組織から取り去って浄化するよう努めることだ。

有害な薬や外科手術によって生体を害することなくこれを達成するのに役立つ傾向のものはすべて、すぐれた自然の治癒法として容認できる。

人体を清潔にして元気づけることをせずに病原菌を殺傷する手法を採用するのは、菌や害虫を家にはびこらせないようにするために、新鮮な空気と日光をみなぎらせたり、ほうき、ブラシ、たくさんの石けん及び水を惜しまず精力的に使ったりして家を清潔で心地良く保つかわりに、炭酸、その他の病原菌殺傷剤を毎日家に振りかけるようなものだ。なぜなら、防腐剤や病原菌殺傷剤は、家を清潔にするどころか、さらに不浄にするだけだからだ。すべての細菌学者は異口同音に、多くの病原体は、病んだ人だけでなく健康な人の体内にもいると断言している。バクテリアがそれ自体では病気をつくり出せないことも、ある人々には特定の感染症や病原体に対する自然の免疫力が備わっているという周知の事実にょってさらに確認されている。

多かれ少なかれ全人類は、長年にわたって自然の法則に背き、急性の病気を抑制してきたことに起因する、遺伝的及び後天的な病毒、病気を起こす厄介物、薬物中毒に冒されている。だが、活力が低下し、遣伝的に疾患を持ち、肉体及び精神の両面で退化しているという、最も一般的な現在の状況のもとでも、感染症にさらされる条件が同一の場合に特定の疾患にかかるのは、ある程度のパーセントの人だけであることもわかっている。自然の免疫力があるという事実は、私たちが持っている共通の経験だけでなく、クリニックや実験室でも確認されている。ガンの小片を植え付けた特定数のマウスとウサギのうち、ごくわずかが悪性腫瘍を発現したにもかかわらずその病害で死ななかった。これは人間についても言ヘる。

「すべての病気は罪で、人間が時間を数える意味での瞬間の罪では必ずしもないが、経験全体の一部としての罪である。なぜなら神は、いかなる魂であっても消滅させる意思や意図はなく、ただ、自己を直視させるために、皆を、病気、繁栄、辛苦によって、また、その他必要なものによって清めておられるのだから−−しかし、信仰と勤めとによって、汝は神の中であらゆる微細な部分まで完全になる。」[3395-2]

また、「罪には、行なうことが原因のものと行なわないことが原因のものとがある。行なうことが原因のものは許されたが、行なわないことが原因のものは・・・主でさえも・・・留意するよう命ぜられた。」[281-2]

「なぜなら、良いことをすべきなのを知りながらしないのは、その魂にとって罪であり、他者を助ける方法を知りながらそれをやらないでおくのは、汝自身にとって忌まわしいことで、他者との経験において敵対的な状況をつくり出す。これが恩寵の法則及び返報の第一法則・・・愛の法則・・・である。」[5332-1]

この関係の中で、健康な微生物は罪の副産物である分、それだけ自らも病気にかかりやすいということを知るのは興味深い。彼らは、病気を起こす物質の掃除役つまり除去役としての役割を果たし、細菌やウイルスの破壊的な活動を阻止してそれらが危険な程度を越えて増殖するのを防ぐ。しかし、この拡大が極端になると、自然は、本釆の機能として、体内ですべてが良好な状態ではないことを示す警告サインである発熱を伴う炎症という手段に訴える。

「地において、つまり、現われとして、混乱、苦痛、病気をもたらしているものは、法則に対する違反だ。」[281-24]

この基本に立って、次には、私たち自身の病気の状況を分析する必要が生じる。なぜならそれは、自然の法則に背いたことが原因の不可避の結果でしかないからだ。したがって、まず考慮すべきは自己分析で、原因をつきとめてそれに基づいて行動し、病気がさらに広がるのを予防することだ。

しかし、病原菌並びにその他の感染性の病気の危険性は、外的な清潔さと同じだけ、あるいはそれ以上に、内的な不浄さにも関係があることを、私たちは肯定しなければならない。「自然の免疫力一を確実に手に入れ、それによって生命そのものと調和的な波動の関係をつくり上げるには、清潔さと無菌状態が内的人間の浄化と一致協力していかなけれぱならないのだ。なぜなら、

「霊または精神と同じだけ肉体にも神がいる。なぜならこれらは・・・でなければならないからだ!」[69-21]

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